記録

行った店位は記録して置こう、ってなった。毎日飲んで記憶がないんで、何やって生きていたんだか、自分でも分からなくなるので、これ位の跡は残しておかんとならん。

切欠は凄く大事だから。記憶が飛んでいても、色々後から友人らに教えて貰うと、それをヒントに思い出せる事も多い。なんで、そのヒントになる様に、この程度は記録して置きたい。

自分とは?そりゃあ今迄生きて来た全てが自分なのだろうが、記憶にない自分は本当に自分だろうか?と言う疑念は沸く。自己意識もなかった幼稚園にも入る前の自分は自分なのだろうか。

他者の目線から見れば無論そうに決まっているのだろうけど、自分の意識の中にない自分の話をされてもすんなりと受け入れられはしない、それを自分だとは。

餓鬼の頃、嫌な思いをしなかったか?昔は可愛かったのに、とか、昔はもっと頭良かったのに、とか、主に親からこう言う台詞を沢山聞かされる。

でもこちらとしてはそんな自覚はない。今思い返して見るに、幼稚園、小学校、どれ程の記憶が残っているか。それが現在の俺の性格に寄与している事は確かだろうが、それを俺と言われても、俺には受け入れ難い。

過去はどんどん足元から崩れ去って行く。もはや俺には中学、高校時代ですら大分思い出せない。それ所じゃない、偶に自分がこの飲食店行ったかどうか調べる為に、自分のブログを検索するのだが、読んでも思い出せない、他人の話。

ある程度時間が経った過去の自分は最早今の自分とは何の関係もない、大きな断絶がある。過去の文章を読み返すと、かなり驚く、これ俺か?こんな事書く訳ないんだけど?ってのも良くある。

なればこそ、記録しておこうか、ってね。客観的目線で自己を把握出来る様に。誰だこいつは?って思えたならばそれも又1つの成長と言えなくもない。

でも毎日を記録するのは俺の生活パターンに於いては粗不可能に近いから、せめて道標だけでもここに埋め込んでおこうか。一里塚の様に定期的に、足跡を自分が思い出せる様に。

そう考えると、この1年位、記憶を失っていた気がする。記録も余りないので思い出せもしない、生きていたのか死んでいたのかも分からない程に。

通常の人間であれば、その生きた証を誰かがサポートしてくれる、こんな風に特に記録せずとも。自分で覚えておらずとも、それを記憶してくれている他者がいる、故に、自己の証は必要もない。

何かの切欠だな、迷っていなければこんな所に書く事もないし、そう言う点で、昨年は充実していたとも言えなくはない、こんな箱に向き合う気も起きない程に。

ま、そんな大層な物でもないのだが、取り敢えずいつもあやふやな自己の記憶を保管する物として、ここは十分に有効ではあるし、これがないと自己同一性の危機にすら繋がりかねないので、出来るだけ、書く。

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