リスニング・スピーキングは、実技に過ぎない。英語自体に関しての造詣と、リスニングやスピーキングが出来る事に関してを、混同してはならない。
スポーツ科学の教授が皆野球が上手いとは限らず、音楽評論家が皆優れた演奏家とは限らず、美術評論家が皆優れた芸術家とは限らず、医学博士が皆手術が上手い名医とも限らない。
逆に、日本語のプレゼンが上手い奴が皆優れた国文学者であるとも限らず、英会話がぺらぺらな奴が皆優れた英文学者とも限らない。
自分で小説を書く事はほぼなかったのに文学批評をした小林秀雄は、論ずるに値しない人間と言っても良いだろうか?
実技が出来ない者は、その学問に精通していない、と言えるのか。違うね。その学問を研究する時に、実技が上手い必要性は、必ずしも、ない。
こう考えると、もし大学入試で、実技試験である英語のリスニングやスピーキングを課してしまうのならば、その学問の優秀な研究者をそこで落として逃してしまう事もあり得る訳だ。
国文学を志しているほどに日本語に精通している奴を、面接をしたら、しどろもどろだったからと言って、日本語能力なし!、と判断する事に、異議あり。
英文学を志しているほどに英語に精通している奴を、英会話がちょっと出来ないからと言って、英語能力なし!、と試験で落とす事に、理はない。
だから俺は、リスニングやスピーキングなどに偏重しつつある今の英語の試験制度には、猛反対する。
いいじゃねえか、ペーパーテストだけは抜群に出来るけど、根暗でコミュニケーション障害、みたいな奴がいたって。そういう奴が最先端の研究をする事だってあるだろうよ。そう言う人間を、会話してみるとちょっと変だから、と言って、学問の世界から締め出してしまうのは、余りに勿体ない。
(続)
松って、南国沖縄らしくはない感じがするけど。でも、琉球松って種類があるくらいだから、珍しくはない。
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