【新しい表現を・5】変換の箍

こう言う微妙なイメージの違いは各国、言語、時代、それぞれ。文学ってのはこのニュアンスに非常に重い部分を置いて成り立っているから、これが理解出来なければその文の本当の意味は分からない。

元の話に戻そう。結局日本語には日本語の世界があるし、俺は日本人である事を生涯脱するつもりもないから、パソコン上でのこの変換の不便さとも付き合って行かなければならない。

これで最近、いや、ここで書き始めてからずっと悩んで来たのが、変換の箍。

手書きではない以上、変換機能を使わない奴は現代にはまずいない。だが、変換と言うのは万能ではない。最近のは性能が良くなったとは思うが、性能が良くなればなるほど陥るジレンマがある。

変換と言うのは飽くまでも、候補、だ。ついこの間書いた様に「とさつじょう」や「きちがい」を変換したくとも、この糞パソコンが候補を出さないと、非常に面倒。

これはある意味では言論の封殺。作る奴が言語を取捨選択している。言論の自由を奪っている。だから俺は敢えて、変換出来ない物が出て来たらそれを以後も使い続ける事にしている。

ほら、方言を保存しようと言う動き、あちこちの地方であるじゃん?あれと一緒。差別用語を保存する会、みたいな。土人、穢多(これも変換出来ねえ)、非人(これも)、部落、クロンボ、チョン、カタワ、全部大事な言葉だよ。後世に伝えたい。

(続)


慶良間鹿。

夕方に人里に降りて来る。

そんなに人にもびびってないな。

ある程度近付くと逃げるけど。

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