良く分からん侭の訃報・3

数カ月前に、余命幾らとか、もう会話にならないとか母ちゃんから聞いた時、もう会う事はないだろうな、と思った。敵でない親父と会った所で俺に何の意味があるだろうか。

奴は俺を傑作にしようと思って作り上げた。もしそうであるならば、省みる様な事があるべきではない。懐かしさも、感慨もない。奴は敵だったし、俺は常に奴を越えようと思っていたし、なあなあの関係なぞ糞食らえだ。

だから、くたばりやがった、位の感覚。ざまあ見ろ、は流石に言い過ぎかな、そこ迄ではないが、有難うとか、そんな言葉はない。寧ろ、良く生きた、ってとこか。10年以上は無駄に生き延びたよ。

葬式は泣かなきゃならんとか、同調圧力の最たる物。家の馬鹿弟は、これ又贖罪の機会とばかりにわんわんと泣くだろうが、そんなのと一緒にされたくもねえし、抑々、悲しくもねえ。

人は死ぬんだから、何で前以て準備が出来ないのか。80を越えた人間が死ぬ事を予想しない方が寧ろ大分おかしい。だから、ふーん、位。こう書いていて、何もない。

俺は情に厚いし、感受性も人以上に豊か、だと思う、多分。ま、人にどう思われているかは知らんが、それでも、死と言う物に対して不必要な程のタブーとか、言ってはいけない事とか、無駄に作り過ぎだと思うね。

人は必ず死ぬ、これは別にレアな事ではないんだから、これをもっと軽々しく、適当に、ふざけながら、そして扱いも適当、こう言う扱いが出来なければならない。

さて、コロナで人も来ねえから、小さな葬式になるが、死に顔位眺めて来てやるか。寧ろ、馬鹿弟の泣き顔を楽しみに見に行く感じかな。(終)

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