金で何をしたい?、の続き。
つまり、毎日遊び歩ける財力があったとして、実際にそうしたところで、人間は満足できるわけではないということだ。何かしらの生産的活動を行いたいという欲求は必ず出て来る。
家庭があれば尚更だ。親が無職で何もせず遊び呆けている、これで子供がまともに成長するだろうか?親がニートなら、いくら子供に説教したところで説得力は皆無だ。親の背を見て子供が育つのは自然の理。
小さいうちは良いかもしれんが、世間が見えてくる中学生にでもなれば、当然反抗されるだろう。家庭崩壊も見えるね。つまり、いくら大金を手にしたところで、労働しない、という選択肢は有り得ないことになる。
だから、宝籤は、理論的にマイナスを叩く割に合わないもの、というだけでなく、仮に当たったとしてもそれで世界が薔薇色になるようなものではない、ということだ。買うだけ無駄なものと知れ。
金というのは自分の能力の対価でなければ意味がない。自分の能力を磨くことがまず一義にあって、その結果として入って来るものが金、これが本来のあるべき姿だ。
金ごとき、「てめえの力で勝ち取ってみろ!」ってことよ、猪木が言うようにね。そういう人間ならば、金を掴んでも破滅はしない。だが、運で入って来た金は、所詮、悪銭身につかず。その癖、豪遊という麻薬を覚える。
(続)
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