前の続き。
結局のところ、歴史なんてのは、後世の人間がどう評価するか、だ。正義は不変ではない、その時々の解釈に拠る。だから、客観的に歴史を見るというのは不可能に近い。
じゃあ、どう解決するか。人間はたくさんいるのだから、それぞれの主観を常にぶつけ合って色々な意見を並べれば、その集合が擬似的な客観になるのではないだろうか。
簡単に言えば、様々な意見を自由に言える空気があれば良い。大河ドラマを作るのは勝手だけれども、それとは全然違う史観で書かれるものがあっても良い。受け取る側も、そのどちらかの意見に縛られないことだ。
信長は正義、太平洋戦争は悪、こんな偏見ではなく、それぞれの功罪を認めるべき。「太平洋戦争には良い面もあった」とか言うと、歴史修正主義だとか騒ぐ奴がいるが、こういう意見がある、ということが大事だ、ということ。
さっきの尊氏、綱吉の例に見る通り、歴史なんて常に修正されているからな。どう見るかなぞ人の勝手、その意見に同意するかしないかも人の勝手。ただ「言う権利」自体を否定するようなのは駄目だ。
つまり、百花斉放、百家争鳴。多くの人間が様々な意見をぶつけ合う、これが必要。この言葉、中国共産党のスローガンなんだがね。いや、なかなかギャグセンスあるわ、あいつら。
(続)
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