日本語でも英語でも、その言語自体に対する知識と、その言語を実際に使ってコミュニケーション出来る能力とは、無関係だ。優秀な国文学者が素晴らしい会話、演説が出来るとは限らない。
三島由紀夫が優れた作家である事には余り否定的な意見は出ないであろうと思われるが、彼が市ヶ谷駐屯地で演説をした時に、それに聞き耳を立ててくれる人が少なかったのは何故だ。彼のクーデターが失敗したのは、自衛隊員の多くが心を動かされなかったのは、何故だ。
満州事変の際の、松岡洋右の国際連盟での演説は、彼の英語は非常に流暢で論理構成も優れていて、しかも原稿なしで1時間20分ほども喋り、会場では各国代表から拍手喝采を浴びて絶賛されたらしいが、結局、彼の思惑とは反して、日本を侵略国と認定する、と言う物だった。
リットン調査団の報告書の採択に対して、賛成42票、棄権1票、反対1票(日本)。完敗だ。松岡の演説自体に対する評価と、日本の侵略行為に対する事実認定は、さすがに国の代表権を持っている連中、冷静に区別した。
阿呆の大衆相手ならば演説だけで騙しきれたのかも知れんが、国連に集まっている様な優秀な頭脳の連中に対しては、そんな物は通じなかった訳だね。演説は良かったし評価するけど、駄目な物は駄目、と、自国の国益を考えて冷徹に判断出来る奴らだから。
結局の所、会話ってのは、プレゼン能力が優れている方が伝えやすい事は確かではあるが、それだけが全てではない、って事だ。会話は中身を伴ってなんぼ。学問を追求するならば、その中身こそを求めなければ。
(続)
この地を這う様な松は、一度は見る価値はある。
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