リスニングやスピーキングは、実技だ。例えば、スポーツ科学を勉強しようとする人間がいたとしよう。人間の体の動きを研究して、どれが一番効率が良いのか、などと考える学問。この道を目指す人間に、実際に体育実技の試験を課す事は必要だろうか?
スポーツ科学と言うのは、スポーツのコーチと同じ。名選手が必ずしも良い指導者にならないのは、自分がその動きを出来ても、それを他人に伝えて指導出来ないからだ。
体のメカニズムを、科学的に研究してもいなくて知らないなら、自らは優秀な選手であっても、その技術を伝える術がない。このコースに来たら、こんな感じでばーんと打ち返す、なんて説明されても、その通りにホームランを打てる気はしないね、俺は。
つまり、スポーツを科学的に研究する事と、自分が実際にその動きを出来る事とは、全くの別物。学問と実技とは、区別しなければならない。スポーツ科学と言う学問を志す者に対して実技試験を課す意味は、全くない。寧ろ、無用に門戸を狭めている。
これは英語にも当て嵌まる。英語と言う言語を、学問や教養の一環として知ろうとする、研究しようとする時に、英会話と言う実技なぞ、必要ない。課すべきじゃない。
英語に限って、リスニングやスピーキングと言う、コミュニケーションを取れる実技能力を要求するのは、どう考えてもおかしい。例えば、現代文、で考えようか。現代文の試験において、リスニング・スピーキングは課さないのか?課さないならば、何故?
英語にリスニングの試験を課すのならば、現代文でも古文でも漢文でも、同様にすべきじゃないのか?英会話の試験を課すならば、現代文のスピーキング能力、これはとどのつまり、面接でプレゼン能力を見る、と言う事になるのだが、これもすべきじゃないのか?
(続)
沖縄のビーチには結構ある。俺は、ハブクラゲには、一度もやられたことはない。が、この後、別のにやられる事に。
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