軽めの本なら一日一冊は読めるぜ。一度やってみりゃわかるよ、これをやると、パチ屋にいる時間の無駄さ加減がはっきり見えて愕然とするね。自分はこんなに無駄に、一度きりしかない人生の貴重な時間を消化していたのか、とね。
また、パチ屋の糞五月蝿い騒音も勉強に適している。逆に集中出来るんだよ。図書館の静かな空間では、人のくしゃみ一つでも気になるだろう?だが、パチ屋では、騒音だらけだから、もう全てがどうでも良くなる。本に集中出来る。
確かに、ドル箱シェイクとか、レバーの強打とか、うざいけどね。だが、あれをやっている奴は人間ではないから。犬や豚の鳴き声の一つの変化形があれだと思えば、別にもう、どうでも良い。動物と喧嘩しようと言う奴はいない。
打ちながら本を読むことで、自分はあれとは全く違う、まともな人間であるとも、確証を持てる。パチ屋にいるのは、確かに見た目は人の形をしているが、自分以外、中身は大凡、人とは呼べない、猿の亜種なのだ、と確信出来る。
店内に人間は自分以外存在しないのだ、と考えると、自らは孤高の存在でなければならない、と言う自覚が生まれ、それがまた学習への意欲を掻き立てる。
こう考えると、この店内での神である自分は、神に相応しい慈悲の心を持たなければならないと言う義務感すら覚える。猿がレバーを強打しているのを見ても、微笑を浮かべて許せる度量を持たなければならない、とすらね。
と言うことで、パチ屋における『学問のすゝめ』、以上。
(終)
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