【英会話は不要・11】大学ではコミュ障でも構わん

だから、もし大学入試で英語のリスニングやスピーキングを課そうとするならば、現代文の試験に置いても同じ事をやるべき。現代文の試験を課さないとか、日本語のスピーキング能力を見る面接試験を課さない、と言うならば、英語も同様の扱いにすべき。どちらかに統一しろ、と言いたい。

俺は、後者で良いと思っている。大学で学問をやろうと言う人間に対して、スピーキング能力とか、求めなくて良い。勿論、就職試験の場合は別だ。世間一般で働く人間にとってはまず何よりもコミュニケーション能力、これを重視するのは当然。

だが、大学はそういう場じゃない。現代では就職の為の予備校と化している部分はあるけれども、本来、大学は学問の追及の場。コミュニケーション能力など、極論すれば、要らん。コミュニケーション障害でも、勉強さえ出来れば構わん。だから、大学入学試験でリスニング・スピーキング・面接は、不要、と言う事。

例を挙げよう。優れた国文学者、これはつまり、日本語の超上級者である訳だが、そう言う人間は、必ず優れたスピーキング能力・プレゼン能力を持っていると、言い切れるだろうか。

実際、大学の教授を見ると、奴らは優れた研究者なのだろうが、授業と言う面では糞つまらん、二流も良いとこ。早稲田って糞大学だな、と思った。まあ、東大でも同じだと思うが。

文学部の教授と俺を比較した時、俺の方が日本語の造詣が深い、と言うつもりは全くない。そんな驕りは持っていない。だが、面白い授業をしろ、分かり易い授業をしろ、底辺に受ける・大衆に受ける授業をしろと言われたら、俺は勝てる自信は結構ある。

文学博士と「今でしょ」、どっちの方が分かり易い、面白い現代文の授業をするか、と言う事。そりゃね、授業だけに限れば、予備校講師は強いよ、プレゼンと言う面に特化しているんだから。

(続)


久米島、五枝の松。これで一本の松の木。

スポンサーリンク
336280
336280

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

フォローする

PAGE TOP