「小国寡民」は幻想

旧コラム

前の続き。

「ゆいまーる」においては、御互いが同じことを同じように協力しなければならない。つまり、社会に個人を隷属させる、戦前の全体主義に近い、強制的に同質化することを意味している訳で、それを拒否する者、異質な者を許容し得ない。

確かに皆が同質化すれば争いは少なくなるかも知れない。だが、逆に言えば、異端に不寛容であるが故に、それとの間には強い摩擦が起きる。沖縄という閉鎖的環境が抱える根本的な問題がここに垣間見える。

沖縄本島よりも遥かに小さいこの離島ではそれが顕著だ。伊平屋と伊是名という、傍から見れば全く質の違いを感じることが出来ないような間柄にすら、御互いに異質な部分を見て争う。これが「小国寡民」の結果だ。

「小国寡民」というのは要は田舎のことで、田舎が何故どんどん過疎化し消えつつあるのかと言う問題の根本は、このラジオ体操に代表されるような、その社会の構成員を均質化しようとすることから生じる不自由さにある。

「田舎の人間は暖かい」と言うのは、悪く言えば「御節介」と言うことだ。人間関係が「ウェット」で他人に平気で干渉される。つまり、個人の自由度が低い。これが当然の時代においては問題なかったが、現代は自由主義の時代。

マスコミを通じて都市型の自由な生活は喧伝されている。人間は誰しも自由に憧れるものだ。だから自由を求めて田舎を捨てて都会へ出て行く。「小国寡民」の幻想が破れた姿が現在の日本の田舎だと言える。

(続)

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