都市と小国

旧コラム

前の続き。

都市型の大きな社会に様々な問題があることはわかる。多くの場合その根底にあるのは、近隣住民との交流関係が少ない為、人間同士のつながりが減り、それが揉め事、犯罪、訴訟などの軋轢を生む、ということだ。

こう考えると、この正反対にある「小国寡民」は理想的である様にも思える。いわゆる「人間同士のつながりがある暖かい社会」だ。だが、この日、この「小国寡民」にも大いに問題があると知った。

東京が全域で早朝6時半にラジオ体操を大音量で流すことは有り得ないだろう。様々な人間がいて、昼間の仕事もあれば夜の仕事もある都会に置いては、個人個人の生活のリズムの自由が当然認められて然るべきだからだ。

東京での6時半のラジオ体操放送は、それで自由を侵害される人間を大量に生み出す。だから、有り得ない。それは伊平屋でも同じこと。旅行者は確かに少数かも知れない。だが、少なくともこの放送で俺の自由は侵害された。

都市型の社会と言うのは多くの人間がいるが故に、それぞれの自由を尊重しようと言う空気を生み出す。つまり、逆に言えば、「小国寡民」は人を自由にしない。人とは違う自由を追い求める人間を排除する方向に働く。

人間が少ない社会ほど同調圧力は強くなる。「小国寡民」である以上、仕事も協力関係が強い。いわゆる「結」、沖縄流に言うなら「ゆいまーる」だ。それは半ば強制的に参加させられる協力関係で、そこには強い同調圧力がある。

(続)

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